2015.3.11

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さきほど、
14時46分が…過ぎました。
あれから4年も経ったのか…あっと言う間だったような、
長かったような。

2011年3月11日、14時46分に
三陸沖を震源とした大きな地震がありました。
「東日本大震災」という名称がつきました。

そんなん甘いんだよ、
被害が大きい人はどうすんの、
などとお叱りを受けそうな内容になってしまい恐縮ですが…

いちおう、
自分のことを書いてみます。
他の場所で書いた文面と重複する内容もありますが、
お許しいただけたらと思います。

2011.3.11 午後

当日の私は
…眠気とたたかいながら仕事をしていた(ぇ

当時、勤めていた先というのが
35階ほどの高さがある複合ビルでして、
私の勤め先はさほど高層階ではなかったのですが
そこそこの高さの場所、にありました。

私はこの年の夏頃から、
パニック障害のような症状が出てきており
投薬治療で、何とか会社に出勤していました。

で、この薬というのが
昼食後に飲んで、
仕事中(特に午後1~3時くらい)に
自分の意思とは関係なく寝落ち(?)して
記憶が飛ぶので、
日々大変な思いをしながら勤務していました。

でも、この3月11日。
そこまでの眠気が不思議となく
ぼんやりしながら(←それもどうかと思うが)、
北側を向いた状態で、パソコンのキーボードをたたいていました。

ゴゴゴゴゴゴ

自分のいる位置、前方の少し右側(ざっくり言うと北東の方角)から
身体に響くようなゴゴゴゴ…という音が近付いてきました。

ん?と思ったら
オフィスチェアーに座っていられないような揺れを生じました。

目の前が2mほどの高さの本棚だったので、
(デスクでその棚を押さえていたような感じで、私と同じように座っていた人が横並びで3人いた)
全員で立ち上がってその本棚を押さえました。

背中合わせに座っていた列の人たちも、本棚を押さえてくれました。

本震のあと、何度か大きな揺れがあったものの
「待機して仕事せい」と言われたので…
この地震の状況を知るためにググってサボっていました。

あんな時に、仕事なんてできませんよ…無理ですって…

その間、総務課の方達があわただしく走り回って
今後の指示を検討していました。

耐震構造のビルは、
ひたすらゆらゆらと揺れつづけていました。

休憩時、
(データと対峙する仕事なので、強制的に休憩が入る…)
前方のビルの屋上付近から
黒い煙が上がっているのが見え、
みんなでそれを見ながら危機感を感じていました。

酔いました。
「うう…気持ち悪いぞ…」と思っていたら、
ドサッ。という音が聞こえたのち
隣の課で女性が倒れていることが分かりました。

ビル管理室に問い合わせたようで、
(隣なので声が聞こえてくる)
15分ほどしたら救急隊員が2名やってきて
処置をしていて…そうしたら、18時の定時がやってきました。

定時がやってきて

「会社にも泊まれるようにしたので、家が遠い人は検討してみては」
と言われ、一旦会社の外(でもビルの中)に出て…家に電話しました。

家族の安否確認ができて…さあどうしよう、と思いました。

この時点で
パニックの発作が出かかっていました。
ビルがずっと揺れていて、会社に泊まったら
発作が完全体になり周囲に迷惑をかけてしまう…

この時点で会社は私の詳しい病状を知らず

よし、歩いて帰ろう、と思いました。
もちろん自宅までの道のりは遠いことを分かっていながら。

この日、運良く…という言い方は不適切なのかもしれないけれど、
「明日会社休みだし、ちょっと遠くの駅まで歩いて帰ろう」と朝、思いついて
ジーンズとスニーカーという
歩くのにピッタリな服装をして出社していた…。

会社を出発

最短ルートは大体わかっていたものの、
確実に人通りが多くて
パニックがひどくなる予測ができたので…少し遠回りのルート取りをざっくりとして、
ここからはもう、気分で道を選択しながら歩きました。
そっち方面に歩きさえすれば着く、と知っていたので。

ただ、変なところ(とある繁華街)で
ぐるぐる迷ってしまうという事態に…落ち着け、落ち着かないと帰れないぞ、と
自分に言い聞かせながら
携帯アプリの地図を見て、自分の位置を確認しました。

そこを抜けて、
ひたすらひたすら歩きました。

携帯の充電も減ってきて、
なるべく必要時以外は使わないようにしていたものの
自宅まで8kmくらい、という所で
綺麗に電源が落ちました。
コンビニの充電器は全部売り切れていました。

ちなみに…コンビニは
携帯電話の充電器類、電池、
おにぎり、サンドイッチ、お弁当などは全滅でした。

これは
マラソンのように細く長く体力をつなげていきたい、
よしカロリーメイトなどはどうだ!と思ったらそっちも全滅…

これは
お菓子で食いつなぐしかないな…あとは水分…と思い
私はひたすら、入るコンビニ入るコンビニで
これを買ってなんとか歩き貫きました。

ショートブレッドです。ウォーカーの。
普段から大好きなお菓子です。

コンビニにあまりにも商品がなくて、
もうこの際
好きなもんをたらふく食べながら帰ってやろうじゃないか、という
半ばヤケになった選択でした。

でも、これが功を奏したと今では思っています。

小麦粉とバターと砂糖と…ようはハイカロリーなわけですがw、
これをちょっとずつ食べるわけです。

お弁当と違って
歩きながらでも食べられるのは
本当に助かりました。

人通りの少なすぎるところは避けて、
その場の判断を繰り返しながら…日が変わって午前2時くらいに、
ようやく自宅に着きました。

入口が階段なのですが、
それがきつかった…足はもうボロボロでした。゚(゚´Д`゚)゚。

帰宅難民、帰宅

で、帰宅したはいいけど
…自分の寝る場所がなかった…

当時私は、ベッドの頭上部分に
色々物を置いていてですね、
どうやら地震の際にそれが全部ベッドの上にすっ飛んだ…わけです。

これ
寝ている時に地震があったら…全部身体の上に飛んできてたわけですね…(怖

なので
こたつに入りながら…余震があっては起きて、
また寝ては余震で起こされて、を
朝まで繰り返しました。

震源からこんなにも遠いのに
ここまで大きな被害があった、というのは
その威力の強大さに慄くしかないし、
震源近くで被害にあった方にとっては
私が体験したことなど比較にもならない心身への負担が
覆いかぶさってきたのだろうし、


…今も、それが続いている方がたくさんいるのだと思う。

たかが東京であの揺れを体感しただけなのに

その後、見事に
母は心臓の持病を悪化させ
私はパニックと自律神経失調症を悪化させ、

仕事を辞め、
そのすぐ後に入院&手術した母の
家事手伝いを、ということになり

…今に、至ります。

あれから4年経ってはいますが、
私は
元の勤め先から
在宅として内職に近い簡単な仕事をもらっている以外は、
短期アルバイトをたまにやるのが精いっぱい、という状態にあります。

通院するお金なんてありゃしませんよ。
全部、生活費に飛んでいきます。

しかも昨年
がん検診に引っかかり
引っ越してきた隣人が異常な騒音を出す人で
またパニック復活の兆しが…

【追記】
この後、引っ越す機会に恵まれ
隣人騒音からは逃れることができました。
ひとつストレスが減っただけでもありがたいことです…。

もちろん
あの震災で
もっともっと大変な目に遭われた方が
たくさんいることも知っていますし、
精神的に
もっと大きなストレスにさらされている方がいることも
分かっているつもりでいます。

でも、

震源から400km近く離れている東京で、
人ひとりがこういう状態になりました。
母も震災以降、
困った行動が増えるようになりました。

私は
未だにちゃんと仕事ができる状況ではありません。
個人差があるとは思うし
病みかけだったこともあるとは思うのですが。

周囲を見ていると、
(特にお年寄りや精神疾患をお持ちの方、知的にハンディをお持ちの方など)
変に絡んでくる人や
自己顕示のような行為をする人が続出しているような気が…。

異常とまではいかないし
迷惑というわけでもないけれど、
人に対して妙に依存に近いような態度を取る人が、増えたように思います。
(あくまでも個人の感想です)

言いようのない不安、
からきているのでしょうか…私にも、その理由はわかりません。

考えなければならないこと

これからも、私は
この東日本大震災のことを
頭の片隅に置きながら生きていくことになると思います。

この震災で病気が悪化した、ということは
今後のことも考えながら、
いつくるか分からない余震や
他の災害に沿った生き方が必要だからです。

他の方は
思い思いの言動をしていていいと私は思っていますが、
私自身、に関しては
ずっと犠牲者の方たちのことを思っていたいし
あの震災によって影響を受けた方たちの声に耳を傾けていくと思うし

こんなに遠くに住んでいても、
自分ができる時、できるだけの
「何か」をしていきたいと考えています。

その「何か」、というのは
特に固定せず、その時々で考えていければいい、と思う。

何かに過剰にこだわることなく、
何かを避けることなく、

現状、現実から目をそらすことなく
生きていけるのが、
今の私の理想です。