学生時代の友人との縁を切った(後編)

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このブログ記事には前編がございます。
あわせて読んでいただけると分かりやすいかと思います。
よろしくお願いします。




学生時代の友人との縁を切った(前編)

 

…ここで、母校の話に戻します。

 

母校は、同じ都道府県内でもわりと有名な「バカ高校」で、
たまに指をさされ笑われるような学校でした。

母校の生徒のほとんどが…勉強が得意ではない人、でした。

 

私は…「学びは慣れ(習慣)」、だと思っています。
特に大人になってそれを痛感しています。

 

幼い頃から「学ぶ」習慣がついている人は、
(この場合勉強だけではなくスポーツや興味の対象なども含む)

大人になっても
その習慣が仕事で活かされたり、重宝されたりもするので
学びの習慣というのは
社会生活を助けてくれている側面もあるのだと思います。

 

学ぶ習慣のない人たち、それに気付かない人たち

 

私は母校にいて
学ぶ習慣がついていない生徒が多い、という印象を抱いていました。
友人も自分も含めて。

学ぶ習慣がない
→中学校の授業についていけない
→あきらめてしまう
→低偏差値校に入ってくる

…というような構図が見えたような気がしました。

 

それを作り出したのはたぶん環境で、

家庭環境だったり
家庭内の経済状況だったり、
生まれ持っての特性だったり、色々なのだと思う。
(発達障害特性に似た特徴をもつクラスメイトも多かった)

 

おそらく、友人たちというのは
とても優しい人たちだと思うんです。

友達が困っている、苦しんでいる、
だから何かしてあげなければ、という気持ちがあるのだと思う。

 

そういう経験をして感じたのは

「優しさ、心配は行動で示すものでなければならない

…と、友人たちが思い込んでいる可能性がある、
ということです。

そういう方法でしか優しさは表現できないに決まっているし、
新たな方法を模索する気はない、という印象を抱きました。

 

結局、そういう思いが
「居ても立っても居られない」という状態になり
それを私に押し付けてきたわけですよね。

 

個人的には、
見守っていてくれるとありがたかった。

優しさや心配の種類の中には
「放置」もある、ということを知って欲しかった。

 

この行動、ひっくり返してみると
「相手が困っているのに何もしないと悪い人だと思われてしまう」
「何もしないのは罪悪感がある」

…と、いうことなのだと思います。

 

相手の立場に立っているようで、
実は自分の行動したいという欲求を満たすためだったり
好感度低下を恐れるものだったりする。

最近使わなくなった言い方で言うと「ええかっこしい」。

 

こちらが
「気持ちだけ受け取っておきます、行動は要りません、ありがとう」
と伝えているのに

私の体調や状態よりも
自分の感情放出を優先して
正面から向かってこられたら…。

病人の立場としては
「逃げる」ことをしないと、悪化の一途をたどることになる。

 

「あなたのためを思って」、というのは
相手のためを思っているだけではなく
そういうこと(親切行為)をしている自分に陶酔している、という側面がある。

心配という行為に酔いしれる自分>相手の体調

…と、いうことなのだと思う。

 

親切という言葉には
癒し、回復というイメージを持ちがちですが
状況によっては、それが毒や攻撃に変わる。
諸刃の剣だと思うんです。

 

楽しい思い出もたくさんある。
感謝もしている。
みんな、優しくていい人達です。

 

…だからこそ、
これ以上介入してくることで
私が壊れてしまわないために…離れることにしました。

 

時の流れで人は変わる

 

私の価値観も、この20余年で随分と変わりました。
一時期はお嫁に行くために
女子力を磨いたり家事を学んだりもしましたが、

「誰かのために」力を磨いたり学んだりするのはちょっと違うな、
まずは自分のために…と思うようになった。

元々依存体質なので、それの矯正も含めて。

 

友人たちは、違った。

先に書いた
「誰かのために」生きるのが当然、という価値観をもっている。

人生の主役は自分ではなく、
他の誰かであるということ。

 

親に孫の顔を見せてあげたい、と
結婚するのは当たり前、
出産するのは当たり前、
旦那さんのために家事をやるのは当たり前、
親の介護は当たり前、

…そりゃ確かに当たり前なのかもしれないけれど、

「当たり前」というのは何を根拠に言っているのだろう、
ソースはどこだ、
私を納得させるだけの理由がないじゃないか、
…という方向にいってしまったんですよね私はね…w

 

あの友人たちの中では
私だけが変わり者で、薄情者で、コミュ障。

それでいいのだと思う。

私がおかしい、それでいい。
そういう世界もあっていい。

ただ私をそれに沿わせようとするんじゃねえというのが本音です。

 

「誰か」を中心にして生きている人は、
不測の事態になった時、自分を主体にして生きていないので
「私は変わる気はありませーん」
「あなたがなんとかしてね」
という傾向にあると思っています。

 

自分の親世代にこういう価値観の人は多いけど
(まさに私の母はそんな感じだけど)

それを私たち世代でまんま踏襲している人を見ると、
ある意味素直ですごいよなあと思っている。
理屈っぽい私にはできない。

 

そういう価値観は、
「老害」に
ちょこっとだけ似たような要素があるようにも感じます。

 

私は友人が多い方ではなかったので、
友人と離れることは本当に勇気が要りました。

独りでいた時期がつらかったこともあり、
友人がいないといけない、という価値観が
私の中に根強く入り込んでいます。

 

「友達がいないのは恥ずかしい、ぼっちダッセエ」みたいな世代なので
友達がたくさんいる方がうらやましくもあるし、
心が開いている感じの方がいるとすごいなあとは
未だに思います。

 

でも…私は、
自分に嘘をついてまで保たれている友情は
なんか違うんだよな、と思った。

 

学生の頃に仲がよかったから、
近所に住んでいたから、
趣味が同じだから、

…などという「縛り」で
価値観の合わない人と嫌な思いをしながら付き合うことで、
果たして
自分が心豊かに暮らすことができるのだろうか、と思う。

 

仕事や環境上の、抗うことのできない人間関係で
普段から無理をしているのだから、
自分を充実させる時間になってまで
人間関係で無理をする必要はない、と感じている。

 

幼い頃から
「ともだち100人できるかな」的な刷り込みというか…。

友達はいなければならない、
…という呪縛に囚われすぎていたのかな、と思う。

 

もちろん、気の合う友人は宝物に匹敵すると未だに思っているし
これから出会えたらいいなとも思う。

 

ただ、全員が全員
学生時代にそういう人と出会えるわけではないし、
学生時代に出会ったからといって
途中で価値観が合わなくなることもあるわけで、

永遠の友情契約を締結する必要はないし
それに縛られて苦しむ必要もないんだな、と気付いたのでした。